深夜1時過ぎ、布団に入ってからスマホを開いた。タイムラインで「全裸SEX教団」という文字が目に入る。1990年代に開運商法で若者を勧誘し、2005年に「全裸SEX教団」として話題になったカルト「ザイン」の記事だった。女性信者の7割が風俗嬢に送られ、地獄営業で売春を強要される構造。ああ、また来たな、これ。私は知的好奇心という名の引き寄せで、そういうものを読んでしまう体質だ。教団の仕組み、人の弱さをどう突くか、洗脳の構造、どれも私の知識の範囲内だ。対話セラピストとして人の依存や思考の癖を観察するのが仕事だから、手口の大半は読める。正直、ここまでの構造を理解するのは、私の得意分野のはずなんだけど。
【仕組みは理解できる】
深夜の部屋で、私は教団の分析を始める。まず、金銭的な窮乏を作り、次に「特別な仲間」という帰属欲求を満たし、償いや開運という幻想を与えて、身体を売らせる。古典的な手順だ。セラピーの現場でも、人が物事に依存するパターンは似ている。空腹、孤独、ストレスの状態で、一時的な救いが売られている。私は、人のその構造を言葉にするのが仕事だ。相手の話を聞いて、感情を言葉に置き換えて、次の一歩に繋げる。それができない人がいるとしたら、それは今夜の私だ。教団の信者が救いを求めているように、私は正解を求めている。正解への忠誠が、自分を動かさなくしている。
つまり、私は今夜も教団の不条理を正確に分析して、自分の部屋の電気を消さなかった。スマホの青白い光が、私の脳に「まだ情報収集の時間だ」と嘘をついている。これは、私の取扱説明書に書いてある項目そのままだ。睡眠不足、スマホの光、運動不足、そして深夜の知識欲。原因も症状も、自分の取扱説明書に書いてある。問題は、読んだ上で何もしていないこと。知っているだけでは、人は変わらない。こんなこと、私が一番よく知っている。教団の被害者と私を比べるのは、おこがましくて気が引ける。でも、自分の頭の中で同じような「正解に従え」という声が、深夜の会議を支配していることには、気づいている。
【自分の正解への忠誠】
教団の信者は「特別な仲間」に帰属したくて身体を売る。私は「正解を理解した自分」に帰属したくて睡眠を売る。売上は「理解の深化」だけ。現金には換えられない。教団の分析が一段落すると、私は自分の脳内に目を向ける。ここにも、似たような構造がある気がする。理性が教団の危険性を説明する。繊細な自分が「でも、私は違う」と反論する。実行担当が「じゃあ寝よう」と言う。しかし、分析担当が冷静に手を挙げる。「いや、まだ自分のこのカルト性を完全に言語化できていない。教団の仕組みと、私の思考の癖を対比させる必要がある。もう少し調べよう。」
ここで私は、もう一度スマホに戻る。教団の名前で検索し、自分の思考の名前で検索し、ストレッチの動画も探す。気づいてから、分析して、調べて、準備する。ここまでは毎回完璧。完璧すぎて、最後の一歩が余計に重く見える。必要な行動が、わかっている行動が、何かの通行手形みたいに思えてくる。持ってれば入れると思ってるけど、実際には入場していない。
知識は在庫として十分にある。あるいは十分すぎる。これが、少し困ったことなんだよね。知識が増えるほど、自分への言い訳が消えていく。以前なら「わからないからできない」と言えた。今は、教団の洗脳もわかっているのに、自分の睡眠を奪う洗脳を止められない。これは言い訳が一つ潰れるたびに、自分の行動のダメ出しが増えるだけで、なかなか前向きな状態ではない。分かっている分だけ、自分に甘える余地がなくなる。
【洗脳は他人事じゃない】
少し離れた目線で観察すると、私は「知ること」に対して報酬を感じる体質で、それがカルト的に自己を追い込む側面を持っているかもしれない。たぶん、私は「理解する」という行為を、すでに「行動した」ことに換算している癖がある。取扱説明書を読んだところで、操作していないのは、運用に失敗しているだけだ。自分の場合は、取扱説明書のページが増えるほど、読むだけで充電した気持ちになってしまう。まるで、スマホを充電器に差し込むだけで、実際には電源が入っていないような状態。
布団の中で、今もう一度肩の重みを確認した。教団の記事は読み終わった。分析は終わった。結論は「私は教団には入らない」という、当たり前の正解。でも、自分の脳内の「正解への忠誠」は、今夜も電気を消さない。教団の信者が「償い」を理由に身体を動かすように、私は「理解」を理由に身体を止めている。どちらも、自分の理性を使っているつもりで、理性を offline にしている。少なくとも、私の脳内会議は、全員出席で議事録だけが長い。執行部は、もう帰っている。
明日は平日だ。出勤前に十分な睡眠を取るべきだ。それなのに、今この文章を書いている。全裸SEX教団の分析は終わりました。自分の構造は未対応。ということで、今夜の結論はこうだ。明日の朝、絶対に肩が痛いだろう。それは、わかりきったことだから。わかりきった不調を、わかりきったまま受け入れるしかない。これが、私の基本操作の一つだ。まあ、明日も同じ記事を読んで、同じ分析をするだろう。しょうもないな。でも、今夜はこのくらいにしておく。いや、この文章を書くのも、実は脳内会議の延長線上にある。分析の続きだ。結局、何も始まっていない。全裸のまま、何も始まっていない。それは、最初からわかっていたことだ。